福井の高校演劇『明日のハナコ』 東京・神奈川で初の上演
『明日のハナコ』はかわいそうな戯曲だと思いました。
劇作家によって一つの戯曲が書かれ、読まれる、上演される、見てもらえる。
評判を取れば幸い、残念ながら悪評紛々、御見物の方々の心に届かなかったとして、それを書いた劇作家の心に、演じた俳優の体に、あるいは関わってくれたスタッフの方々に、どこか残っていけば、戯曲にとってまずは一つ生まれた甲斐があったというものでしょう。
「ハナコ」は確かに書かれ、上演されたのですが、その後、なんとも不幸なことになってしまいました。コロナ禍の無観客の中行われた高校演劇の県大会は、舞台中継が予定されていたのですが、「ハナコ」だけが放送されないことになりました。そして脚本集は生徒さんが読めないように顧問の先生が預かることになりました。
理由は「個人を特定や、原発という繊細な問題の扱い方、差別用語の使用などについて懸念している」とのことのようです。その後、多くの方々の想いが届いたのでしょう、脚本集は生徒さんたちも自由に読めるようになったと聞きます。
戯曲や上演に問題がないことが改めて確認されたということでしょう。放送はされないままですが、たしかに、その後、多くの報道もなされ、SNS上でも「騒ぎ」になっているこの上演を、今、改めて放送することは、逆に生徒さんを傷つけることになるかもしれません。
しかし演劇は本来、舞台と観客席が一体となり楽しむものなのに、致し方ない状況の中、どれだけ「ハナコ」の放送が上演に力を注いできた生徒さん含め皆さんの救いになっていたかと思うと、本当に心が痛みます。
そして、「ハナコ」も傷ついたでしょう。もう見てはいけないし、読んではいけない、と烙印を押されたのです。一度押された印は、剥がしても、深く痕が刻まれるでしょう。
読まれるために、上演されるために生まれてきた戯曲なのに。
この話を聞いた時、本来は深い憤りが湧くはずですが、あまりのことに驚きがあり、次いで哀しみを覚えました。
演劇が、楽しく、面白く、あるときは考えさせられたり、思わぬ目を開かされたり、何かの励みや励ましにさえなるのは、それが何より自由であるからだと思うのです。
劇作家は、世界が自分にはこう見えた! どうです、見えませんか? ということを書いています。
そして、それをどう感じ、どう考えるか、それもまた当たり前ですが、自由です。
しかし、自由でない不幸な時代がありました。今が、決してそんな時代ではないよう強く祈ります。「表現の自由」は、どうもいつもいつも素直に自分たちの横にいるものでもないようです。
何か間違えてしまったら、わたしも含めた大人たちは、傷ついたものたちに謝まり、
「読んじゃいけない戯曲も、見ちゃいけない演劇も、やっちゃいけない演劇もありません。どんな演劇もそれを読んで、見て、あるいはやって、自分で感じ考えればいいんです。そのために、わたしたちは、おかしな出来事にはおかしいというし、言われなき非難や攻撃を受けるものたちを守るために、できるだけのことをします」と言わなければ。
というわけで『明日のハナコ』のリーディング上演をやります。
それが、「ハナコ」のために、すべきことだし、できることだと思いました。
誤解なきよう。「この戯曲、おもしろそうだからやりますか」という普通の公演です。
つまらなかったら、そう言ってください。ええと、頑張ります。
丸尾聡